この写真は、土の流出を防ぐために設けられた木の板、壁である。

なんてことのない一枚なのだが、自分という人間の特異な部分を紹介する一例として撮影をした。
これがダメなんだ。
ダメ。
どうダメか。
この板にうっかり倒れ掛かってしまい、転倒を防ごうとした手のひらに木の刺が刺さってしまう想像をしてしまって、ふにゃっとなってしまう。ひどいときには数分、気分が悪くて動けなくなってしまう。それくらいダメ。
いやわかってる。こちらの現場の方は、そのようなトラブルさえも予見して、滑らかに削られたものを使われている。よくわかる。わかっている。
ただ勝手に「想像」してしまうのだ。それでふにゃっとなってしまう。
*
中学生の頃、塾の夏期講習中に、友だちとふざけあっていて、シャーペンが自分の腕に刺さったことがあった。あれもダメだった。
このままシャーペンの芯が血管に入り込んで、そのまま全身をめぐり、やがて心臓に辿り着いて自分の命は尽き果ててしまう。そんな想像をした。ふにゃっとなってしまった。
直線上を動く点PとQの話どころではない。血管内を動くShinの話だ。中学生だった自分には重すぎる想像だった。
*
父親の亡くなる直前、医師から状況について説明を受ける場面があった。緊迫した状況だ。ドラマで見たことがあるような光景である。芳しくない話をする医師に「ちょ待てよ」と、キムタク似の自分がキムタク風に伝えることもありだった状況だ。
でもだめだった。ふにゃっとなってしまった。お父さんごめん。俺の方が先逝くわこれ。だめだわ。。。
*
身体系の想像力が異様に発達していて、日常が生き辛くて仕方ない。
今でもそう。コロナ肺炎で入院したときの記憶が鮮明で、心拍などを伝えるベッド横のモニター画面を見たりアラーム音を聞くと動悸がする。布団をかぶって寝ると、息苦しくなって肺炎の記憶がよみがえり、あわてて抜け出そうとする。
そんな自分が定期的に「目に注射をする」という治療を受けているのだから、ひどいものだ。注射前、待合室では眼科のスタッフの皆さんが声をかけて応援してくれる。注射後、待合室でくたーっとなっていると、今度は皆さんが「がんばったね」とほめてくれる。
ふにゃ。
ほんと苦手。ふにゃ。
ある程度お付き合いの長くなった方は、自分のこの想像力のことを理解してくれていて配慮をしてくださるのだが、度の過ぎたものでもない、日常のどこにでもありそうな会話ですら、勝手に想像力を発揮してしまうことがあって困る。
心因的なものなので、それに関する療法もあると教えてもらったことはあるのだが、それはそれで、想像力という自分のコアを成すキーワードを奪われてしまいそうでもある。なおせない。なおさない。
生きていくとはかくも辛く、難しいものだ。
ふにゃ、な自分のメンタルを伝えて、先方には配慮をしていただく。どうか何卒、この駄文を最後まで読んでくださった方は、頭の片隅にそのことを。ふにゃ。