病気のことを伝えたら、保険代理店の人が「あぁ」と察したような顔で僕に営業をすることを諦めた。寂しいなぁと思う一方で、便利だとも思う。夜のお付き合いなどは、病気を理由に断りやすくなった。最近はそれも周知されて、誰からも誘われることがない。あぁやっぱり寂しいんじゃないか。
ところで、ずっと眼の治療(注射)を受けている。注射そのものが怖いというのもあるのだけど、何より不便なのは、毎月定期的に通うその日は散瞳検査の影響で、ほぼ一日仕事にならないということだ。
そしてその検査の結果を見て、数か月に一度注射をすることになる。注射の日は眼帯をすることになるので、翌朝もう一度病院に行って検査を受けるまで、ますます仕事にならない。その状態でお客さんと会って話していても、やっぱり気をつかわれるのが分かって申し訳ない気持ちになってしまう。
さらに厄介なのは、この病気はいつ注射をすることになるか分からないということだ。状況が悪いと「今日、急きょ注射をやりましょうか」という話になったりする。「今夜、おでんにしようかしら」なんてノリで治療が決まるわけだ(自覚症状である程度予測はできるんだけど)。
眼科に行くのは月曜日。そして眼帯が外れるのは火曜日。
毎月のスケジュールに、この《どうなるか分からない体調のために確保しておくリズム》が生じたことで、どこかに皺寄せが行き、お客様にご迷惑やご負担をおかけしたり、自分の生活に無理が生じたりしてしまう。
これで僕はいつ新曲のレコーディングをし、振り付けを覚えたら良いのか(不要)。
自分のスケジュールに不規則なリズムが生じた結果、なかなか「次の予定はいつ、こうしましょう」と決めることも叶わない。通院があり、状況を見て、ひとつ、未来が決まって、ようやく次の予定も埋めていける感じ。不義理だ。そして非効率的である。
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せっせと「通院と治療のバランス」というタイトルでここまで書いた。【目の病気】のことについて書いているのだけれど、今日に限ってそれを長々と書くのは理由がある。
自分には【左手人差し指のばね指】という病気(?)もあって、今朝はその観察を兼ねてこの長文を綴っている次第。
観察、と書くのはつまり、状況が悪化しているということ。
たくさんの方に、こういう方法がいいよと教えていただいた。ひとつひとつ試してみて、それなりに効果もあるのだけど、完全に治ったという感覚にまでは至らない。ここ数日は、指が曲がらない/曲がりにくいというだけでなく、身動きがとれなくなるほどの激痛に襲われることも増えてきてしまったのである。
そういう理由もあって、パソコンで文章を書くことに今、どんな不便や不具合があるかを検証しているところ。検証しつつ、自分の覚悟を決めて、次の治療のステージに進むことも検討しなければいけない。なにより、今のままではピアノが弾けない。それは雨の降らない砂漠に身を置かれてしまうのと同意であって、僕はやっぱり、水を求めたいのである。
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そしてここまで文字入力を観察していたところ、やはり、異様にミスタッチが多い。また、人差し指の違和感を回避するために《他の指でカバーしよう》という意識の介入が、文章を書くときに必要な没入感を妨げていることにも気づく。
書いている途中にも、何度か激痛に襲われた。指の痛みだけで全身が硬直するだなんて、細胞たちは伝えたがるように存在しているんだな。
さて。
身体の悲鳴を聞いて、ここからのスケジュールをどうしたものかと雪の宿を食べながら思案することにする。